想いに真っ直ぐ

VOL.305 / 306

篠塚 建次郎 KENJIRO Shinozuka

東京都大田区出身 1948年-2024年(享年75)
学生時代からラリーを始め、大学卒業後、三菱自動車に入社。社員ドライバーとしてパリ・ダカールラリーやWRCでも活躍。人気実力ともに日本ラリー界の代名詞となる。国内各地で講習会・ドライビングスクールなどを精力的に行い、自動車業界やモータースポーツの発展に貢献。『2022年JAHFA日本自動車殿堂』に、ラリードライバーとして初めて殿堂入り。“生涯現役”を貫く。

世界の強豪を相手にパリ・ダカールラリーとWRCの舞台で優勝争いを繰り広げ、双方で世界の頂点に立った初めてのそして唯一の日本人ラリードライバー 篠塚建次郎氏。その金字塔は今でも破られることなく輝きを放っています。惜しまれながら2024年3月に逝去された氏の訃報に接し、謹んで哀悼の意を表すとともに、氏のラリー人生における知られざるエピソードから晩年のモータースポーツ発展に寄与した活動などについてご紹介してまいります。

HUMAN TALK Vol.305(エンケイニュース2024年5月号に掲載)

想いに真っ直ぐ---[その1]

 道なき荒野を何日も全開で走り抜けるタフなラリードライバーのイメージが強い篠塚氏であるが、幼少期は病弱だったと語る。
「母親は『10歳まで生きられない』と思っていたそうです。ところが父親の勧めで5歳から乗馬を始めたらどんどん健康になってね。それから乗り物は馬から自転車、バイク、そして軽自動車へと変わり、大学1年生の時に友達の頼みでラリーのナビゲーターを体験したことが転機に。車が横に滑りながら走るその衝撃!もう一発でのめり込みました。と同時に『俺が運転した方が速い』とも。気付いたらハンドルを握っていて、競技に出てみたら初戦から優勝。それからなんだか速い大学生がいると噂になり、三菱チームの目に止まったんです」。

1997年パリ・ダカールラリーゴール直後

1967年当時の篠塚氏

赤いスリーダイヤを背負って31年

 当時開催されていた日本アルペンラリーにアルバイトとして関わったことがきっかけで、三菱自動車のラリーチームにスカウトされることとなり、これが縁で三菱自動車に入社。「周りから『プロの道を選んでもラリードライバーじゃ食っていけないぞ!』と言われてね、社員として働きながらハンドルを握る社員レーサーとしての道を選んだんです」。時は1971年、唯一無二の社員プロドライバーが誕生した。ここから篠塚氏は2002年まで赤いスリーダイヤを背負って走り続けることとなる。
 篠塚氏の経歴の中で燦然と輝くのが1997年のパリ・ダカールラリー総合優勝。その参戦の歴史は1986年から始まる。
「’86年はほぼノーマルのような車でとにかく完走を目指し、翌’87年に競争力のある車に変えて総合3位になったんです。NHKでも連日放送され、日本に帰国したら空港に沢山カメラマンが待ち構えていて、誰か有名人でも一緒に帰ってきたのかなと思ったら自分目当てで本当にビックリしたね。レースの結果に喜んだのはもちろんだけど、ラリーというスポーツが日本でポピュラーになったことが本当に嬉しかった。やっぱりそれが自分の使命だと思っていたから。自分は三菱自動車の社員だからこそ、走った結果により車の売れ行きが大きく変わったことが何より嬉しかった。パジェロなんかは販売台数が一桁変わったから。『モータースポーツによって車の販売に好影響を及ぼせることを証明したい』それが本当に数字として表れたことが、社員ドライバーの僕として人生で一番大きなことだったかもしれません」。

1997年ダカール疾走中

サラリーマンドライバーの使命とは

 純粋なレーサーであればレースに勝つことが最上にして唯一の目標かもしれないが、本職がサラリーマンという特殊な環境における目標と大変さはどこにあったのか。「当時、日本の自動車会社の中でモータースポーツを継続しなければならない理由を本当に理解している会社は無かったと思う。ヨーロッパの会社は文化、風土としてのモータースポーツをみんな理解しているじゃない。日本は予算が無くなると辞めてしまうから。でもやっぱり世界で車を売っていくにはモータースポーツが必要なんだってことを会社に認めてもらいたい。だからラリーを続けることによって販売に好影響を与えるんだということを三菱自動車、ひいては日本の自動車メーカーに理解してもらうのが自分の仕事だと思ってやってた。それは社員だったからこそできたことだと思う。それがただのラリードライバーとは違うところだったね」。

パジェロミニのヒット

「もちろんWRCやパリ・ダカールラリーで優勝するのは夢ではあったけど、そのためには走れる環境を作らなくてはいけない。その事に自分の精力のほとんどを注ぎ込んでいたような気はするよね。だからマスコミに登場することもそうだし、販売に繋がるようなことはもう全てやった。例えばパジェロミニのネーミングも最初は「ミニパジェロ」という名前で開発が進んでたんだけど、それだと商品名としてどうかと思ったので僕の方から「パジェロミニ」って提案してみたり、デザインセンターに赴いてデザインのアドバイスなんかもした。それでパジェロミニが大ヒットしたっていうのが僕にとっては本当に嬉しかったなあ、爆発的に売れたからね。だからパジェロ、ギャランVR-4、パジェロミニ、ランサーエボリューションなどのヒットが僕らが走れる環境作りに貢献したし、自分自身のモチベーションにもなりましたね」。(以下次号)

※本稿は取材直前に逝去された氏のご遺志に基づき、ひろ子夫人およびマネージャーの浅井道浩氏のご協力の元、過去の取材音声などから再構成されたものです。篠塚様のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。
※画像提供:三菱自動車、LightningKenjiroProject事務局

初代パジェロミニ

HUMAN TALK Vol.306(エンケイニュース2024年6月号に掲載)

想いに真っ直ぐ---[その2]

 篠塚氏の功績を語る上で忘れてはいけないのがパリ・ダカールラリーでの活躍ともう一つ、WRC世界ラリー選手権での優勝だ。氏は日本人ドライバーとして初のWRC総合優勝を達成している。「1997年のダカールラリー優勝ももちろん嬉しいのですが、1991年と1992年のWRCアイボリーコースト2連勝、そして思い入れがあるのは1994年WRC サファリラリーでの総合2位獲得ですね。総合優勝にはあと一歩届きませんでしたが、1976年のサファリラリー初挑戦から、ずっと表彰台に乗る事を夢見て参戦していましたので本望でした。まさしくこのラリーで、ENKEIホイールを使っていたのもいい思い出です。
 少し余談にはなりますが、1976年のサファリで三菱ランサーが優勝し、私は6位入賞でした。帰国後、全国を周り、三菱がランサー・サファリラリーキャンペーンを開催した際、ゲストボーカリストとして歌っていたのが、のちの私のカミさんです。カミさんとの出逢いも、このサファリラリーに参戦していなければなかったでしょう。そういう意味でも、本当に思い入れのあるラリーです」。

1997年パリ・ダカールラリー ポディウム

1994年WRCサファリラリーではENKEI製ホイールを履く

セネガルに小学校校舎を寄贈

 氏はパリ・ダカール・ラリーのゴール地点として何度も訪れたセネガルの首都ダカールのヨッフ市に小学校の校舎建設費用を寄付した。それが2002年のこと。以来『アフリカ・エコレース』など機会があるごとにその小学校を訪れ、文房具を届けていたという。
 「ケンジロウ小学校(正式名称:マム アラッサン ライ ド ヨッフ)は少しずつ貯めていたラリーの賞金を使って2002年に建てました。文房具や本などをラリーゴール後に自ら現地に足を運んで送り届ける活動は、今後も欠かさず続けていきたいですね。また余談ですが、一人息子が小学校に入って、目を見張る勢いで成長して行く様子に驚くと同時に、学校の大切さを実感したんですよ。それがアフリカ大陸をいつまでも走る理由とも繋がり、ラリーでゴールする回数が最も多かったダカールに学校を建てて、『生徒たちにお土産を届けたいから競技に参加するんだ』ってことになった訳です」。

2020年 建次郎学校を訪問した時の一コマ

JAHFA 日本自動車殿堂入り

 「近年で1番嬉しかったのは『2022年JAHFA日本自動車殿堂』に、ラリードライバーとして初めて殿堂入りさせていただいたことですね。まさかこのような素晴らしい賞を戴けるとは思ってもいませんでした。還暦を迎えた頃からは“生涯現役”を目標に精進しているのですが、『継続は力なり』が私の座右の銘なんです。だからラリードライバーとして走り続けながらやったこと、残してきたことを評価してもらえて天にも上る心地でした。セネガルのダカールに小学校を建てたことも、功績として殿堂入りの評価に繋がったと言われましたが、これも何歳になっても走り続けたいという思いの強さが形になったものです。
 70歳になり『古希から喜寿へ』というスローガンを掲げてチャレンジをスタートしましたが、資金が掛かるので中々大変です(笑)。ギネス記録への再挑戦もしたいと思っています。2013年に『電気自動車一充電航続距離(途中無充電)世界記録』によるギネス記録を、2014年に『ソーラーカー世界最速記録』によるギネス記録を樹立しました。同じ記録を塗り替えるか、また違うジャンルによるギネス樹立を目指すかは未定ですが、何かしらの再挑戦を考えています。
 近年は暖冬続きでイベント断念が続いていますが、八ヶ岳で『シノケンスノードライビングスクール』も開校したいし、後進の育成指導もできると良いのですが…早く2人目の日本人WRCウィナーが誕生する事を、切に願っています」。 

ラリードライバー人生55年

 「今まで自分の気持ちに従って懸命に真っ直ぐに突っ走ってきました。山あり谷ありいろいろなことがありました。滑ったり転んだり、大事故を起こしたり、その度に“まだまだ走れる!”と復活してきました。どうであれ、すべてひっくるめて篠塚建次郎です。ラリーと出会い、走ることが生業となり、多くの人に助けられ、支えられ、引き上げてもらいました。そのすべてに感謝しています!
我ながら幸せな人生だと思います」。

※本稿は取材直前に逝去された氏のご遺志に基づき、ひろ子夫人およびマネージャーの浅井道浩氏のご協力の元、過去の取材音声などから再構成されたものです。篠塚様のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。
※画像提供:三菱自動車、LightningKenjiroProject事務局

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